山茶花(令和3年2月11~12日掲載分)


◎ 山茶花(令和三年二月十一~十二日掲載分)
● 令和三年二月十一日 木曜日 
○ 十一月日々折々 その三十五 枯草
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅塔心礎大きくて 

 十一月中旬の旅。僧寺の七重塔跡地に着いた。大きな礎石が七つ点在している。中央の心柱の塔心礎の石は特に大きい。九世紀の当時、六十メートルほどの高さのある巨大な七重塔が建っていたという。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十九)
国分寺塔の跡地に冬の蝶
僧寺跡枯草踏んで塔跡へ
塔跡に大き銀杏の冬黄葉
冬晴の塔の跡地に説明板
冬の晴板に七重塔の絵が
冬の旅七重塔跡に礎石
㊟七重塔跡・・・塔跡1は3間四方。武蔵国分寺の七重塔は『続日本後紀』によると835年(承和2年)に落雷によって焼失したとされる。その後、845年(承和12年)に男衾郡の大領であった壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)が私費による再建を申し出て許可されている[2]。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』の武蔵国分寺跡の項より転載)
 七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルのところに位置します。塔は、「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する国分寺の重要な施設で した。3間(約10メートル)四方の礎石建物で、高さは60メートルほどあったと推定されます。現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っています。
 国史である「続日本後紀」に、承和2年(835年)に七重塔が雷火で焼失し、復旧ができなかったのを、前の男衾郡(おぶすまぐん・現在の埼玉県比企郡付近)の大領(たいりょう・長官)である壬生吉志福正(みぶのきっしふくしょう)が再興を願い出て許されたと記されています。発掘調査では、塔が創建期とその後の2回この位置で建てられたことを確認しています。
 また、平成15年度の地下レーダー探査により、礎石の残る塔跡(塔跡1)の西方約55メートルの地点で、もう一つの塔跡(塔跡2)が発見されました。塔跡2には大規模な地盤固めの跡(版築・はんちく)があるのみで礎石は残っていません。塔跡2と塔跡1の建て替えとの明確な関係は把握できていません。所在地 西元町3-26(国分寺市役所HPより転載)
(注)九世紀の当時、60mほどの高さのある巨大な七重塔が建っていたという。
◎「武蔵国分寺の七重塔跡について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十三)》
冬の旅広き敷地に礎石あり
冬の旅塔の礎石の大きこと
冬の旅敷地中央に石心礎(しんそ)
冬の旅塔心礎大きくて 
冬の旅数多な礎石並びをり
冬の旅大きな礎石どっかりと
冬うらら往時の姿に思い馳せ
冬麗奈良の御代に思い馳せ

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● 令和三年二月十二日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その三十六 山茶花
《今回の自選代表句と自句自解》

国分寺中門脇に山茶花が 

 十一月中旬の旅。僧寺の七重塔跡跡地から国分寺中門跡に移動した。中門跡地の脇で山茶花が花を咲かせていた。とてもきれいだ。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十)
冬の旅少し歩いて中門に
冬の旅中門跡に礎石あり
冬の晴中門礎石くつきりと
冬日浴び中門跡に我は立ち
冬日背に中門跡に吾立ちぬ
冬の晴中門戸口はこの辺り
冬の旅無き築地塀はあの辺り
国分寺中門脇に山茶花が 
僧寺跡ピンクの山茶花明るくて
僧寺跡ピンクの山茶花明るかり
冬の旅中門・金堂間に遺構
冬の旅寺跡に幢竿(どうかん) 遺構あり