冬帽子(令和3年2月7~8日掲載分)


◎ 冬帽子(令和三年二月七~八日掲載分)
● 令和三年二月七日 日曜日 
○ 十一月日々折々 その三十一 冬帽子
《今回の自選代表句と自句自解》

寺跡へ向かう路傍に山茶花が 

 十一月中旬の旅。文化財資料展示室で見学した後、次の目的地である国分僧寺跡へ向かった。また途中で山茶花の花を見つけた。また花に癒された。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十五)
冬の旅立ち寄る資料展示室
冬の旅瓦・土器など展示され
冬旅に鉄製品など観て回る
冬の展歴史の重みずっしりと
冬の晴国分寺跡へ歩きゆく
旅先ですり違う人冬帽子
寺跡へ向かう路傍に冬の菊
冬の旅妻と国分僧寺跡へ
寺跡へ向かう路傍に山茶花が 
冬の旅しばらく歩いて寺跡に
冬の旅やがて国分寺跡に着く

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● 令和三年二月八日 月曜日 
○ 十一月日々折々 その三十二 冬の草
《今回の自選代表二句と自句自解》

冬旅に最大級の国分寺 

 十一月中旬の旅。文化財資料展示室見学後、次の目的地である国分僧寺跡に着いた。ここは、日本で最大級の国分寺である。広大な敷地に驚いた。

見渡せば僧寺の跡地散りもみじ 

 今日は冬日和。見渡すと僧寺の跡地には散りもみじが・・・。僧寺の跡地に彩りを添えている。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十六)
冬の旅妻と国分僧寺跡
冬の旅寺の北東地域入る
冬の旅僧寺北東地域入る
※僧寺北東地域・・・僧寺の金堂跡・講堂跡を対象に実施された。
以後,発掘調査は,昭和 33 年の日本考古学協会による僧寺中門跡の調査,昭和 39 年 ~ 44 年の滝口宏らによる僧寺鐘楼・中門・塔,尼寺推定金堂・尼坊,僧寺伽藍地区画溝な 9 どの調査,昭和 48 年の武蔵国分寺跡調査会による僧・尼寺中間地域の調査などと,断続的 に行われてきた。  
 その後,昭和 48 年,市立第4中学校建設問題*を契機に、曲折を経て広域学術調査を実 施する市常設の武蔵国分寺遺跡調査会が組織され、昭和 49 年から昭和 61 年までの12 年間で,僧尼寺の寺域範囲が確認された。(国分寺市・武蔵国分寺遺跡調査会記録より転載)
(注)僧寺の南にある市立第四中学校付近は,当時まだ雑木林や畑だった。
冬日差す広き跡地に説明板
冬の旅ここは武蔵国分寺跡
㊟武蔵国分寺跡(僧寺地区)・・・武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は、東京都国分寺市西元町・東元町にある古代寺院跡。武蔵国分尼寺跡を含んで国の史跡に指定されている。
 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・国分尼寺の寺院跡にあたる。現寺院については武蔵国分寺を参照。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)所在 東京都国分寺市西元町1丁目から4丁目付近
(注1)武蔵国分寺は元弘3年(1333)分倍河原の合戦(新田義貞と鎌倉幕府)で焼失し、建武2年(1335)に薬師堂だけ再建されたことが伝えられている。尼寺はこの頃には、廃寺になっていた。
(注2)薬師堂・・・新田義貞公の寄進で建立された薬師堂は老朽化し、約430年後の宝暦年間(1751〜1763)現在の丘陵上に建て替えられ、この薬師如来(国指定・重要文化財) を中心に除々に形態を整えて今日を迎えている。
(追記)
 元弘3年(1333)の分倍河原の戦いで敗れた新田義貞は、その敗走中、国分
寺を焼失させ、建立から600年近く続いた武蔵国分寺は終わる。その後、義貞は後悔の念からか、2年後の建武2年(1335)、薬師堂を寄進する。
※分倍河原の戦い・・・分倍河原は鎌倉時代の古戦場。鎌倉幕府第十四代執権だった北条高時の弟、泰家が指揮する幕府軍と新田義貞率いる倒幕の軍勢が、1333年に壮絶な戦いを交えた場所です。
この戦いで、一時敗走したが援軍を得て盛り返し、大勝した。勢いを増した新田軍は、数日後には鎌倉へとなだれ込み、遂に140年余り続いた鎌倉幕府は滅亡した。
(追加資料 その一)武蔵国分寺・僧寺伽藍  
 僧寺の主要伽藍が考古学的に解明された経緯は,昭和 31・33 年の日本考古学協会仏教遺 跡調査特別委員会 ( 石田茂作委員長 ) による発掘調査で,金堂基壇の規模や講堂西側の継ぎ 足し基壇の存在を明らかにしたのを嚆矢とする。その後,尼寺跡の無許可宅地造成を契機と して,市教育委員会による昭和 39 ~ 44 年までの断続的な調査が行われ,中門・北方建物 の規模や七重塔の再建,伽藍地 ( 寺域 ) 区画施設等が判明し,続いて昭和 49 年以降には寺 域確認調査を柱として市に常駐調査組織 ( 現国分寺市遺跡調査会 ) が設置され,中枢部区画 施設の規模や伽藍地 ( 寺域 ) 区画の変遷等を解明すべく,市内の各所で調査が行われた。こ れらの調査によって,僧寺伽藍地 ( 寺域 ) は幅 2.1 ~ 3.0 m,深さ 0.8 ~ 1.5 mの素掘り溝で 区画され,その規模は北辺 384.1 m,東辺 428.3 m,南辺 356.3 m,西辺 365.4 mを測るこ とが判明した。  
 また,伽藍配置は,南辺の西寄り3分の1等分線を中軸線として,伽藍地区画に設けた南 門,中枢部区画に設けた中門,中枢部区画内南側の金堂,その背後の講堂,中枢部区画外の 北方建物が一直線に並び,金堂・講堂の両側には鐘楼・経蔵 ( 未確認 ) と東西僧坊が配される。 中枢部を区画する施設は掘立柱塀 ( 柱間 2.4 m ) と素掘り溝で構成され,中門より両翼に延 びて北へ折れ,東西僧坊を取り込み,講堂の背後で閉じる。回廊を有さず,僧坊等までを囲 繞する特異な構成をとるのは,後述する尼寺も同様である。
 なお,中枢部区画の規模は東西 約 156 m,南北約 132 mを測る。塔は中枢部区画の外に位置し,金堂の中心より直線距離 で約 220 m離れた伽藍地 ( 寺域 ) 区画の南東隅に存在する。  
 以上の伽藍を構成する主要の建物は,瓦葺き礎石建物で,金堂・講堂・鐘楼と塔は基壇を 有することが判明している。このうち,金堂は間口7間 ( 約 36.1 m ),奥行4間 ( 約 16.6 m ) の東西棟建物で,諸国国分寺中最大級の規模を誇る。(国分寺市・武蔵国分寺遺跡調査会記録より転載)
(注1)武蔵国分寺跡・・・武蔵国分寺跡では僧寺と尼寺が発掘・保存されており、同一地域にこれらの史跡が保存されているのは貴重です。国史跡に指定された武蔵国分寺跡は東山道武蔵路跡と共に「武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡」という史跡名所に変わり、現在では約155,600m²の広大な史跡として保存され公開されています。(古代の東京にタイムスリップ!サイトより転載)
(注2)武蔵国の国分寺がどうしてここ?
 国分寺の建立地の条件は、中国の神話が用いられました。これは四方の方角を司る、霊獣に関わりがあります。
四神相応の地に合致した「国分寺」の建立の条件として国分寺崖線と武蔵国府、湧水が関わっていました。
 北には丘を控えて“玄武の神(亀)”、東には湧水が出て“青龍の神(龍)”、西には交通の要所の東山道武蔵路が“白虎(虎)”、多摩川の流域で広がった南には“朱雀(鳳凰)”と神が守ってくれているこの土地は、武蔵国の拠点に条件が適(かな)いました。(国分寺のお話サイトより転載)
(追加資料 その二)
 741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると(野川)
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
 四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。(国分寺市観光協会の関連サイトより転載)
◎「武蔵国分寺跡(僧寺地区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十二)》
冬旅に最大級の国分寺 
冬の旅国分寺跡は国史跡
冬の旅ここは国指定史跡です
冬の旅ここは国指定寺史跡
冬晴の跡地の敷地広々と
国分寺跡地の敷地に冬の草
国分寺跡地の敷地に枯草が
見渡せば跡地の木々は冬もみじ
見渡せば僧寺の跡地散りもみじ