銀杏枯る(令和3年3月5~6日掲載分)


◎ 銀杏枯る(令和三年三月五~六日掲載分)
● 令和三年三月五日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その五十七 銀杏枯る
《今回の自選代表句と自句自解》

公園の広場の井戸に射す冬日 

 十一月中旬の国分寺の旅。都立国分寺公園の西元地区の南エリアに入る。野鳥の森を抜けて、「こもれびの広場」へ。広場には、災害用井戸があった。丁度井戸に冬の日が差し込んでいた。開けた場所にあり明るい雰囲気の井戸である。ここは、きっと良い避難場所になることであろう。

(十一月中旬 国分寺散策 その五十一)
冬の旅広場に木々があちこちに
公園の広場の井戸に冬陽射
公園の広場の井戸に射す冬日 
災害用井戸冬日浴び
園内に立つイチョウの樹冬黄葉
旅先の園内に立つ銀杏枯る
冬の旅「こもれびの広場」より
冬の旅北西口より通りへと
冬の旅南側より北側へ
冬の旅妻と多喜窪通り行く
冬の旅「ふれあい橋」の下潜る
冬の旅北側エリアの入口へ

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● 令和三年三月六日 土曜日 
○ 十一月日々折々 その五十八 冬の色
《今回の自選代表句と自句自解》

歩き行く藤の回廊冬黄葉 

 十一月中旬の国分寺の旅。都立国分寺公園の西元地区の南エリアから、「ふれあい橋」を渡り、泉地区の北側エリアに入った。「武蔵の池」傍の「藤の回廊」の藤の葉は黄色に色付いていた。

(十一月中旬 国分寺散策 その五十二)
公園の入口付近冬もみじ
冬の旅北側エリア入口に
冬の旅北側エリアに入園す
※北側エリア・・・大きな池がある北側のエリアに来た。敷地108,000平方メートル余りのこの公園は、元は旧国鉄の中央鉄道学園の跡地を利用したもの。
冬の旅妻と入園泉地区
国分寺公園入口冬もみじ
※ ブログ「治蝶の俳句関連写真集」の『「続・冬(新年)の写真」の「国分寺散策」(十一月中旬)』に『東京都立武蔵国分寺公園の冬もみじ(東京都国分寺市西元町)』の写真を掲載しています。ご覧頂ければ幸いです。
公園のイチョウ見事な冬黄葉
園内に見事な銀杏の冬黄葉 
冬の旅学園跡地の記念碑が
※学園跡地の記念碑
 武蔵の池の東側にある鉄道学園跡地を示す記念碑
 車輪模った中央鉄道学園記念碑
 国分寺中央鉄道学園:  明治42年(1909)、鉄道院初代総裁の後藤新平によって各鉄道管理局 (東部・中部・西部・九州・北海道) ごとに鉄道院職員地方教習所が、東京には鉄道院職員中央教習所が設置されたのが始まり。
 東海道新幹線の開業した昭和39年(1964)以降から赤字が続き、 昭和62年(1987)に国鉄が分割民営化される際に、国鉄の債務額の37兆円を返済する目的で敷地は売却され閉鎖された。(歴史の浪漫街道より転載)
◎「国分寺中央鉄道学園跡地について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十八)》
冬の旅池の東に記念碑が
武蔵路の歴史を訪ねる冬の旅
歩き行く「藤の回廊」冬黄葉 
行く道の右も左も冬の色
冬の旅妻と「武蔵の池」に着く

落葉(令和3年3月3~4日掲載分)


◎ 落葉(令和三年三月三~四日掲載分)
● 令和三年三月三日 水曜日 
○ 十一月日々折々 その五十五 落葉
《今回の自選代表句と自句自解》

伽藍地の溝跡に枯葉点々と 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)を後にして、階段を登って国分寺崖線(ハケ)の上に出た。上に伽藍地(寺院地)北辺の区画溝跡があった。その伽藍地の溝跡には枯葉が点在していた。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十九)
冬の旅朱の橋渡り祠へと
冬の旅祠に真姿弁財天
㊟真姿弁財天(ますがたべんざいてん)・・・真姿弁財天社は武蔵国分寺の旧境内地にあたり、環境省(庁)の名水百選、都名湧水57選に選定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」に隣接して建つ祠で、弁財天を安置します。池にまつわる伝説は国分寺の医王山縁起に嘉祥元(848)年における玉造小町のものが伝承されます。社殿は『新編武蔵風土記稿』にも記載され、弁財天開帳の記録は安政5(1858)年の記録が残り、明治14(1881)年には芝居興行も開帳に併せて行われ(『国分寺史料集Ⅲ』)、社殿内には弘化2(1845)年と安政5年の銘を持つ鰐口が現存します。
 社殿は池の中島に築かれ東面します。建物は切妻切妻入、東入の形式です。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)
◎「真姿弁財天について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十六)》
冬の旅池傍らから湧く清水
冬の旅池傍らから湧水が
ハケ崖の階段登り冬の旅
冬の旅階段登り崖上へ
冬の旅階段登りハケ上に
冬の旅北辺の区画溝跡へ
冬の旅次は寺院の伽藍地へ
※寺院の伽藍地・・・伽藍地(寺院地)北辺の区画溝跡。所在地 東京都国分寺市西元町1丁目1−32(国分寺ゼルクハウス前)
伽藍地の溝跡に落葉点在す
伽藍地の溝跡に枯葉点々と 
溝跡の周囲の林冬紅葉
伽藍地の周囲の林冬紅葉
冬の旅往時の面影今はなく

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● 令和三年三月四日 木曜日 
○ 十一月日々折々 その五十六 冬枯れ
《今回の自選代表句と自句自解》

公園の野鳥の森は冬もみじ 

 十一月中旬の国分寺の旅。伽藍地(寺院地)北辺の区画溝跡の近くから、都立国分寺公園の中に入った。西元地区の南エリアに入るとそこは野鳥の森。紅や黄色の木の葉を愛でながら森の中を歩く。雰囲気がいい。

(十一月中旬 国分寺散策 その五十)
冬の旅続いて都立公園へ
冬旅に都立国分寺公園に
㊟都立国分寺公園・・・旧国鉄・鉄道学園跡地につくられた、1周約500メートルの園路に囲まれた円形の芝生広場が特徴の都立公園です。園内には、桜や藤などの様々な樹木や花があり、滝や池、噴水などの水辺もあります。解放感のある広い芝生は家族連れの憩いの場として人気です。
 蒸気機関車の車輪を使ったユニークな中央鉄道学園記念碑もあります。毎年行われる「国分寺まつり」の会場となります。南面は、真姿の池湧水群や国分寺などの名所と接します。(国分寺市役所HPより転載)
武蔵国分寺公園(むさしこくぶんじこうえん)は、東京都国分寺市にある都立公園。正式名称は東京都立武蔵国分寺公園(とうきょうとりつむさしこくぶんじこうえん)。
 概要【編集】
 1987年、国鉄が分割民営化される際に、国鉄の債務を返済する目的で閉鎖された中央鉄道学園の跡地を住宅と公園として整備して2002年4月1日に中央鉄道学園跡地の泉地区が開園した。2004年には中央鉄道学園跡地の南側を通る東京都道145号立川国分寺線(通称:多喜窪通り)の向かいにあった郵政省(当時)の社宅(逓信住宅)跡地を整備した西元地区が開園した。
 公園北側にはJR中央本線が通り、公園中央を東京都道145号立川国分寺線(通称:多喜窪通り)が通り、泉地区の西側には中央鉄道学園跡地の敷地を整備した際に発掘され、整備された東山道武蔵路。都営住宅を挟んで府中街道(埼玉県道・東京都道17号所沢府中線)が通っている。
 主な施設【編集】
 芝生広場 武蔵の池 こもれび広場 野鳥の森 鉄道学園記念碑(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)所在 東京都国分寺市泉町2丁目・西元町2丁目 (武蔵国分寺公園事務所:泉町2-1-1)
(注)
 平成14年(2002)に中央鉄道学園の跡地に開園した一周500mの円形芝生広場を中心に、 旧鉄道学園時代からの樹木や滝、池、噴水がバランスよく配置された水と緑のゆったりした都立公園です。 メインの泉地区(芝生広場)と隣接の西元地区(こもれび広場)がある。(歴史の浪漫街道より転載)
◎「都立国分寺公園ついて」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十七)》
冬の旅平成の都立公園に
冬の旅南東口より入園す
冬の旅南エリアに入園す
※南側エリア・・・野鳥の森や芝生の広場など自然が豊富。
冬の旅野鳥の森はこんもりと
公園の野鳥の森は冬紅葉
公園の野鳥の森は冬黄葉
公園の野鳥の森は冬もみじ 
常緑樹冬の紅葉を際立たせ
常緑樹冬の黄葉を際立たせ
二人して枯葉重なる小路ゆく
二人して落葉重なる小路ゆく
冬枯れの気配感じる小路ゆく
冬の旅公園に蝶の説明板
冬うららオオムラサキの説明板
公園の「こもれび広場」に冬陽射

人参(令和3年3月1~2日掲載分)


◎ 人参(令和三年三月一~二日掲載分)
● 令和三年三月一日 月曜日 
○ 十一月日々折々 その五十三 人参
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の川湧水集めて流れゆく 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)は、東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている。川状の用水は、この時季冬の湧き水を集めて緩急をつけて流れてゆく。せせらぎの音が魅力的である。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十七)
冬旅に背負うリュックは野菜入り
リュックには袋入りの人参が
冬の旅リュック背にして池向かう
道脇に流れる小川冬の水
冬晴のハケ崖下に湧水源
冬の川湧水集めて流れゆく 
冬の日に湧水を汲むよその人
冬の日に名水を汲むよその人
冬の旅ペットボトルに湧水を
冬の旅ペットボトルに名水を
冬の旅清き湧水の傍に池
冬の旅真姿の池すぐ傍に

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● 令和三年三月二日 火曜日 
○ 十一月日々折々 その五十四 冬服
《今回の自選代表二句と自句自解》

真姿の池の林は冬紅葉 
真姿の池辺に明るき石蕗の花 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)は、東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている。川状の用水は、この時季冬の湧き水を集めて緩急をつけて流れてゆく。せせらぎの音が魅力的である。
 崖線の源まで来るとそこに「真姿の池」があった。崖線の森林は冬もみじ。「真姿の池」の水辺には、石蕗の花が咲いていた。モミジも石蕗の花も、「真姿の池」に彩りを添えていた。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十八)
冬旅に真姿の池湧水群
㊟真姿の池湧水群・・・真姿の池湧水群は、近くの野川の源流から流れ込む湧水で、病を患った絶世の美女、玉造小町がこの水で身を清めたところ、もとの美しい姿に戻ったという伝説から、真姿の池と呼ばれるようになりました。国分寺薬師堂近くに位置し、江戸時代に尾張徳川家が鷹場としたお鷹の道に沿って散歩が楽しめます。(東京の観光公式サイトGO TOKYOサイトより転載)
 真姿(ますがた)の池湧水群
 真姿の池は、東京都内では青梅市の御岳渓流と共に環境庁の「名水百選」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されている。真姿の池の由来は、嘉祥元年(848)不治の病に苦しんだ玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところたちどころに病は萎え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったという伝説からきている。
 真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ2間四方許、池中(ちちゅう)の狐嶼(こしょう)に弁天の祠宇(しう)を置く。この池水も田地へそそく」とある。周辺の雑木林は下草の刈り払いが行われ管理が行き届いており国分寺崖線の雑木林景観が良く保存されている。国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15mほどの崖線で「ハケ」と呼ばれている。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝である。(東京都教育委員会)
池の脇清らに湧き出る冬の水
冬旅の心休まる湧水群
冬旅に平安時代の伝説池
伝説の「真姿の池」や冬の旅
真姿の池の林はもみじ
真姿の池の林は冬紅葉 
真姿の池の林は冬黄葉
真姿の池の欅の冬黄葉
※欅の冬黄葉・・・ケヤキ(欅)の木は、秋に美しく色鮮やかに紅葉します。「けや」は古語で「美しい」という意味です。「けやけしの木」が訛り「ケヤキの木」と呼ばれるようになりました。
 ご存知のように、紅葉は「もみじ」は赤色、「イチョウ」は黄色に色づきます。
 しかし、ケヤキは個体によって紅葉の色が「赤」「橙」「黄」と3種類存在し、ケヤキの並木通りでは、すべて同じ木であるのに木によって色が異なるという現象が起きます。(Woodyニュースより転載)
見上げれば椋木少し冬黄葉
㊟椋木・・・ムクノキ(椋木、椋の木、樸樹、 Aphananthe aspera)はアサ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはエノキに似るためムクエノキ(椋榎)とも言う。
 成長が比較的早く、大木になるため、日本では国や地方自治体の天然記念物に指定されている巨木がある。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)
見上げれば池辺の椋木冬黄葉
下見れば我が足元に冬の草
真姿の池の竹垣に石蕗の花
真姿の池辺に明るき石蕗の花 
冬の旅池なかに祠あり
冬の旅池の中島に弁財天
冬日和鳥居バックに写真撮る
冬服の妻と池背に写真撮る
冬の晴祠バックに「はいパチリ」
冬の旅二人で潜る朱の鳥居

蕪(令和3年2月27~28日掲載分)


◎ 蕪(令和三年二月二十七~二十八日掲載分)
● 令和三年二月二十七日 土曜日 
○ 十一月日々折々 その五十一 石蕗咲く
《今回の自選代表句と自句自解》

冬晴の湧水沿いの道二人して 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)は、東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている。冬景色を愛でながら妻とゆっくり歩を進める。冬の陽射しも暖かい。贅沢な時間である。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十五)
冬の旅お鷹の道ゆき湧水へ
おたかの道湧水園へ冬の日に
㊟おたかの道湧水園・・・現国分寺の東側の敷地一帯が史跡に追加指定され、市立歴史公園として整備されました。そのうち、お鷹の道の北側が「おたかの道湧水園」という有料公園施設です(平成21年10月18日オープン)。
 園内北側は国分寺崖線にかかり、崖線一帯には湧水源など良好で豊かな自然環境が残されています。また、園内には市内でも貴重な歴史的建造物である市重要有形文化財の長屋門(江戸時代後期)と倉(明治時代)が残されています。所在地 国分寺市西元町1-13-10 (国分寺市役所HPより転載)
冬の旅妻連れ次の湧水へ
冬の旅湧水群へ向かい行く
国分寺崖泉を行く冬の旅
㊟国分寺崖泉・・・国分寺崖線は通称“ハケ”と呼ばれています。この崖線は古多摩川の浸食によって出来た崖の連なりで、国分寺市の西町五丁目あたりから目立ち始め、世田谷区あたりまで続いています。国分寺市にいちばんはっきりあらわれているので「国分寺崖線」と呼ばれていました。(リバーサイドウォークサイトより転載)
(注)国分寺崖線の上から、武蔵国分寺や武蔵国分尼寺が見下ろせる。
冬の旅崖泉の「はけ」下りゆく
※崖泉の「はけ」・・・国分寺崖線と湧水
 地形図を見て分かる通り、多摩川が削りだした河岸段丘である国分寺崖線が、非常に顕著な形でお鷹の道の背後に立ち上がっている。高低差はほぼ15メートル。
 この崖は大田区田園調布の先まで続いている。崖線に湧水は付き物。崖下から絶えることの無い清水が湧き出している。(武蔵野と水辺サイトより転載)
◎「国分寺崖泉について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十五)》
冬旅に妻連れ下るハケの道
冬の旅湧水沿いの道歩く
冬晴の湧水沿いの道二人して 
ふたりして石蕗咲くお鷹の道を行く
冬の旅清流沿いを歩きゆく

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● 令和三年二月二十八日 日曜日 
○ 十一月日々折々 その五十二 蕪
《今回の自選代表句と自句自解》

旅先で買う人参は袋入り 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道を歩いてゆく先で「ほんだ自然農園」さんの野菜の直売所を見つけた。早速立ち寄り、袋入りの人参などを買い込んだ。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十六)
冬の旅新鮮野菜の幟見え
冬の旅路傍に野菜の直売所
冬の旅行く水路沿いに「やさいや」が
冬旅に新鮮野菜の直売所
「ほんだ自然農園」に寄る冬の旅
お鷹の道行けば白菜店頭に 
白菜が「やさいや」さんの店頭に
束の葱「やさいや」さんの店頭に
「やさいや」に束の人参売られをり
店頭の「やさいや」の蕪(かぶら)大きくて
店頭の蕪の色は白と紅
冬旅に新鮮野菜買う求む
旅先で買う人参は袋入り

木の葉(令和3年2月25~26日掲載分)


◎ 木の葉(令和三年二月二十五~二十六日掲載分)
● 令和三年二月二十五日 木曜日 冬の晴
○ 十一月日々折々 その四十九
《今回の自選代表句と自句自解》

お鷹場の名残の道や冬もみじ 

 十一月中旬の国分寺の旅。武蔵国分寺資料館の見学を終えて、再びお鷹の道を歩いた。このお鷹の道は、江戸時代に、尾張徳川家のお鷹場(鷹を使って狩りをする場所)に指定されていた事から名付けられた。その名残りの道である。今の時季は紅や黄色の冬のもみじに彩られている。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十三)
冬の旅資料館後に次の地へ
冬旅にお鷹の道を歩き行く
お鷹場の名残の道や冬の旅
お鷹場の名残の道や冬もみじ 
※ ブログ「治蝶の俳句関連写真集」の『「続・冬(新年)の写真」の「国分寺散策」(十一月中旬)』に『初冬の「お鷹の道」(東京都国分寺市西元町)』の写真を掲載しています。ご覧頂ければ幸いです。
江戸の世の名残の道や冬もみじ
水路沿いの遊歩道ゆく冬の旅
お鷹の道遊歩道行く冬の旅
お鷹の道遊歩道行く冬の晴
冬日和行くお鷹の道遊歩道
冬の晴囀り耳に歩き行く
冬日和囀り耳に道歩く

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● 令和三年二月二十六日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その五十一 木の葉
《今回の自選代表句と自句自解》

小流れは木の葉集めて流れゆく 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)は、東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている。この時季は、枯れた木の葉や落葉が浮かびながら流されてゆく。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十五)
小流れの水路の脇に散り黄葉
小流れの水路の脇に石蕗の花
水路脇日を浴び明るき石蕗の花
遊歩道脇に明るき石蕗の花
お鷹の道脇に明るき石蕗の花
冬うららせせらぎ耳に歩き行く
小流れに船の如き散り紅葉
小流れに船の如き散り黄葉
小流れに枯葉は船の如くして
小流れに落葉は船の如くして
小流れは木の葉集めて流れゆく

冬日和(令和3年2月23~24日掲載分)


◎ 冬日和(令和三年二月二十三~二十四日掲載分)
● 令和三年二月二十三日 火曜日 
○ 十一月日々折々 その四十七 枯薄
《今回の自選代表二句と自句自解》

冬旅に七重塔の模型観る 
冬うらら往時の栄華に思い馳せ 

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道に隣接する施設「武蔵国分寺資料館」に寄り、史跡武蔵国分寺跡の出土品などの展示を鑑賞した。その中には、国分寺の復元模型もあった。奈良時代当時のイメージが湧く。往時の栄華に思いを馳せた。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十一)
冬の旅史跡の駅に立ち寄って
冬の旅「おたカフェ」に寄り券購入
冬の旅歩いて近くの資料館
旅先の資料館脇に冬紅葉
旅先の資料館傍に枯薄
冬旅に立ち寄り見学資料館
冬の旅資料館に入り鑑賞す
※資料館・・・ここでは、武蔵国分寺資料館のこと。
冬旅に国分寺跡資料館
㊟国分寺跡資料館・・・ここでは、武蔵国分寺跡資料館のこと。
 「見る」・「学ぶ」・「訪ねる」をコンセプトにした資料館です。おもに史跡武蔵国分寺跡の出土品を展示して、これまでの発掘調査の成果や、市内の文化財、史跡武蔵国分寺跡の整備事業などを紹介しています。(国分寺境内)(国分寺市役所HPより転載)お鷹の道に隣接する施設。出土品などが展示されているほか、長屋門の内部を見学できる。
(注1)国分寺跡資料館前の庭に、1/10スケールの七重塔の復元模型がある。
(注2)お鷹の道沿いにあり、武蔵国分寺跡資料館や長屋門、七重塔模型などが敷地内にある有料の歴史公園です。園内にある湧水源保全地区は立ち入ることはできませんが、湧水源観察ポイントからは流れ出る湧水や周辺の豊かな緑の原風景をみることができます。(古代の東京にタイムスリップ!サイトより転載)
◎「国分寺跡資料館について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十三)》
冬旅に七重塔の模型観る 
冬うらら往時の栄華に思い馳せ 
冬旅に頂くカタログ・パンフレット

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● 令和三年二月二十四日 水曜日 
○ 十一月日々折々 その四十八 冬日和
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅歴史ロマンにどっぷりと  

 十一月中旬の国分寺の旅。お鷹の道に隣接する施設「武蔵国分寺資料館」に寄り、史跡武蔵国分寺跡の出土品などの展示を鑑賞した。その中には、国分寺の復元模型もあった。奈良時代当時のイメージが湧く。往時の栄華に思いを馳せた。
 僧寺の全容が明らかになり、歴史のロマンを感じる。当時いかに仏教の興隆に力を入れていたかが理解できた。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十二)
冬旅に妻連れ展示室巡り
国分寺のジオラマ鑑賞冬旅に
冬旅に国分寺模型鑑賞す
冬灯下国分寺模型鑑賞す
冬旅に復元模型鑑賞す
冬の旅僧寺に全容明らかに
冬日和僧寺に全容明らかに
冬の晴僧寺に全容つまびらか
冬旅に観音菩薩像鑑賞
※観音菩薩像・・・「銅像観世音菩薩像」は、小品であるが白鳳期後期に制作されたものと言われ、関東では最も古い白鳳期の仏像だと言われている。
冬の旅像の近くにブラタモリ
※ブラタモリ・・・NHKでオンエアされた「ブラタモリ国分寺~遺跡編」で、このあたりが紹介された。
㊟ブラタモリ・・・『ブラタモリ』(英称:BURATAMORI、通称:ブラタモ)は、NHK総合テレビで2008年から断続的に放送されている日本の紀行・教養バラエティ番組。司会を務めるタモリの冠番組でもある。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)
◎「ブラタモリについて」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十四)》
冬の旅展示に石斧・土器・硯(すずり)
冬の旅出土の瓦展示され
※瓦展示・・・男瓦(おがわら)・女瓦(めがわら)・鐙瓦(あぶみがわら)・宇瓦(のきがわら)など
冬の展瓦に郡と人の名が
冬の旅展示に板碑・農耕具
冬の旅展示に古代のレンガ「磚(せん)」
国分寺見どころ多き冬の旅
いくつもの歴史重なる冬の旅
冬の旅歴史ロマンにどっぷりと 
冬麗歴史の浪漫楽しめり

日向ぼこ(令和3年2月21~22日掲載分)


◎ 日向ぼこ(令和三年二月二十一~二十二日掲載分)
● 令和三年二月二十一日 日曜日 
○ 十一月日々折々 その四十五 障子
《今回の自選代表句と自句自解》

障子戸の廊下側より日射し入る 

 十一月中旬の国分寺の旅。次に向かう場所は、旧本多家住宅長屋門。受付済ませて建物内に入る。一階には二つの六畳間。廊下側の六畳間は床の間付きだ。廊下側から冬の日が射し込んでいる。廊下側の白障子が明るい。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十九)
冬の旧本多家住宅長屋門
長屋門脇の立木は冬黄葉
冬旅に妻と長屋門見学す
冬旅に暫し見学長屋門
冬旅に江戸時代末の長屋門
冬の晴庭掃く音する長屋門
冬日和竹垣向こうに六畳間
床のある六畳部屋に障子あり
床の間の六畳部屋に白障子
障子戸の廊下側より日射し入る 

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● 令和三年二月二十二日 月曜日 
○ 十一月日々折々 その四十六 日向ぼこ
《今回の自選代表句と自句自解》

住宅の廊下に座して日向ぼこ 

 十一月中旬の国分寺の旅。次に向かう場所は、旧本多家住宅長屋門。受付済ませて建物内に入る。一階には二つの六畳間。廊下側の六畳間は床の間付きだ。廊下側から冬の日が射し込んでいる。廊下側の白障子が明るい。子供の頃を思い出し、ほんの少し廊下に座して日向ぼっこ。実に懐かしい思いがする。

(十一月中旬 国分寺散策 その四十)
六畳間日射しに明るき白障子
六畳間障子の日射しに暖かみ
住宅の廊下に座して日向ぼこ 
旅先でほんの束の間の日向ぼこ
冬旅に養蚕資料の展示見る
冬の展蚕の発生順序模型
冬灯下蚕の発生順序模型
冬の旅見学終えて「おたカフェ」へ
※「おたカフェ」・・・史跡の駅「おたカフェ」のこと。
 お鷹の道の癒・交流・展示空間。弁当・食事・トイレ休憩など誰でも自由に入れます。水湧く場所に"WATER CAFE"
お鷹の道にある森の中のお休みどころです。国分寺の野菜や果物を使ったメニューをお愉しみ頂けます。また、国分寺の名産品も展示販売しています。目の前には、おたかの道湧水園と武蔵国分寺資料館があり、そちらのチケットも販売しています。(史跡の駅「おたカフェ」HPより転載)全国に約1,700ヵ所ある「まちの駅」の1つ。
◎『「おたカフェ」について』《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十二)》
冬の旅史跡の駅の「おたカフェ」に
「おたカフェ」の店頭三和土(たたき)に散り黄葉
「まちの駅」に妻と立ち寄る冬の旅

石蕗の花(令和3年2月19~20日掲載分)


◎ 石蕗の花(令和三年二月十九~二十日掲載分)
● 令和三年二月十九日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その四十三 冬日和
《今回の自選代表句と自句自解》

冬日和児童公園に親子連れ 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺の薬師堂から国分寺公園(児童公園)へ移動した。公園では親子連れが遊んでいた。男の子は元気に動き回っていた。冬日和の午後の公園の情景は、「平和」そのものであった。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十七)
冬の旅妻と国分寺公園へ
冬晴の児童公園に親子連れ
冬日和児童公園に親子連れ 
冬の旅公園内に住居跡
冬旅に観る土師竪穴住居跡
㊟土師竪穴住居跡(はじたてあなじゅうきょあと)・・・土師竪穴住居跡(国分寺市)
【名称】土師竪穴住居跡(市指定史跡)
【所在地】東京都国分寺市西元町1-13 国分寺公園内
【概要】
 昭和31年、日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会によって、はじめて武蔵国分寺跡の本格的な発掘調査が行われました。この時、僧寺の金堂・講堂跡とともに薬師堂の西側でも調査が行われ、僧寺の寺域を境する北辺・西遍の両溝跡と寺域の内外より発見された二号竪穴住居跡を史跡指定にしました。
 この住居跡は、規模が4.0m×4.2mのほぼ方形をしており、煮炊きを行った竈が北壁に二ヶ所東壁に一ヵ所設けられていました。住居内部からは完成の土器八点、完成の「セン」一点など多数の遺物が出土しています。
 名称の「土師」は、当時一般的に使用されていた土器の一種類である土師器を指しており、「土師器を使用していた時代の」という意味です。(好奇心いっぱい心旅より転載)
◎「土師竪穴住居跡について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十九)》
冬の旅園の東屋で小休止
冬の旅公園奥の神社へと
冬の旅八幡神社境内に
※八幡神社・・・武蔵国分寺に隣接してある本村八幡神社。この社のすぐ裏側に小さな児童公園があり、公園の片隅には竪穴住居跡が残されている。
冬の晴鳥鳴く声する八幡社
冬日和鳥の鳴く声よく響く

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● 令和三年二月二十日 土曜日 
○ 十一月日々折々 その四十四 石蕗の花
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅せせらぎ耳に歩きをゆく 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺から程近いお鷹の道を歩く。せせらぎの音が清らかな音を響かせる。実にいい雰囲気だ。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十八)
幾種もの鳥鳴く声聞く冬の旅
冬の旅参道の左右に石灯篭
参道の枯葉踏み行く老夫婦
冬の旅鳥居を潜り道路へと
冬の旅階段下り道路へと
冬の旅本多家の墓道脇に
本多家の墓の路傍の枯葉踏み
冬日浴び楼門脇の道進む
冬の旅妻とお鷹の道に入る
㊟お鷹の道・・・お鷹の道・真姿の池湧水群(おたかのみち・ますがたのいけゆうすいぐん)とは東京都国分寺市西元町の武蔵野台地国分寺崖線によって形成されるママがハケに沿って用水となっている、武蔵野台地の代表的な景観の場所であり1985年(昭和60年)名水百選に選定された[1]。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)
お鷹の道・真姿の池湧水群について
 お鷹の道・真姿の池湧水群は、環境省選定の名水百選の一つです。国分寺市内には潤沢な湧水地帯が形成されており、特に真姿の池近くの湧水は水量豊か。湧水の一部は池に流れ込み、残りは水路を100mほど流れ、野川の支流の小さな清流に注ぐ。清流沿いの約400mの小径がお鷹の道。江戸時代に、周辺が尾張徳川家の鷹場であったことから名づけられました。
 真姿の池の由来は、嘉祥元年(848年)、絶世の美女といわれた玉造小町が病気に苦しみ、病の平癒を願い全国行脚をした際に、武蔵国分寺で願をかけたところ、「池で身を清めよ」との霊示を受けて快癒したとの言い伝えによります。現在は池の中央に弁財天が祀られています。都指定名勝、都名湧水57選。(じゃらんネットより転載)
(追記)
 江戸時代にこの辺りは尾張徳川家のお鷹場(鷹を使って狩りをする場所)に指定されていた事から名付けられた。(趣意は案内板より)
※お鷹場・・・江戸城を中心に五里(20km) 以内のエリアは幕府の「御拳場」(おこぶしば=鷹場)、寛永10年(1633年)にその外側を尾張藩・紀州藩・水戸藩の徳川御三家などの鷹場としています。 
 御三家筆頭の尾張藩は武蔵野に広大な鷹場を有し(境界を示す83本の石杭を建立)、東は朝霞市、西東京市(保谷に5本の境界を示す石杭が現存)、練馬区大泉、南は三鷹市、小平市、立川市、国分寺市、西は青梅市、埼玉県入間市、狭山市、坂戸市、北は志木市、富士見市までに及んでします。(「東京とりっぷ」より転載)
◎「お鷹の道・真姿の池湧水群ついて」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十)》
冬の旅せせらぎ耳に歩きゆく 
お鷹の道用水脇に石蕗の花
行く道は紅や黄色の冬のモミジ
お鷹の道路傍の生垣冬紅葉
冬のお鷹の道行き長屋門
冬の旅目に旧本多家長屋門
㊟旧本多家長屋門・・・お鷹の道の西端には、武蔵国分寺の本堂などがありますが、この手前には「旧本多家長屋門」があります。ここは、「お鷹の道湧水園」となっていて、園内には武蔵国分寺資料館があり、歴史的な出土品などを見ることができます。園内の入り口にとなっているこの「旧本多家長屋門」は、修復作業が終わりさらに風格を増しました。
 真姿の池湧水群の一つがこの園内から流れ出ていて、湧水園の西門近くから水路となってお鷹の道沿いに流れます。(地元の地形と歴史と知るサイトより転載)
(追記)
 おたかの道湧水園・武蔵国分寺跡資料館の入口は長屋門(国登録有形文化財)になっている。旧本多家(国分寺村の名主)住宅長屋門。弘化5(1848)年建築。桁行15m、梁間4.5mの木造2階建、東西棟の寄棟造鉄板葺。中央を門口とし、東側に座敷、西側に物置を配する。(関東で奈良を感じるツアーサイトより転載)
◎「旧本多家長屋門について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百九十一)》
冬の旅ここは名主の長屋門

冬日影(令和3年2月17~18日掲載分)


◎ 冬日影(令和三年二月十七~十八日掲載分)
● 令和三年二月十七日 水曜日 
○ 十一月日々折々 その四十一 冬日影
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅各植物に万葉歌 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺の本堂の前に着いた。周りには、たくさんの万葉植物(約百六十種類)が所狭しと並べられていた。一つ一つの万葉植物には、植物名と万葉歌が記されていた。先代の思いのこもった万葉植物園がそこにあった。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十五)
冬旅に種類豊富な植物園
冬の旅各植物に札付いて
冬の旅各植物に植物名
冬の旅各植物に万葉歌 
冬の晴植物丹精込められて
冬の旅感銘受けし植物園
冬日浴ぶ本堂右手に寺務所あり
冬の晴本堂右手に寺務所見え
冬の寺流水の音と鳥の声
冬の旅本堂前より堂宇へと
枯葉踏み急な階段登りゆく
冬の旅階段登り薬師堂
薬師堂堂宇の周り冬木立
冬日影木立周辺ひんやりと
境内の気温の下がる冬日影

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● 令和三年二月十八日 木曜日 
○ 十一月日々折々 その四十二 冬の雲
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅前に歴史ある薬師堂 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺の本堂から急な石段を登って薬師堂へ移動した。この堂宇の中に国の重要文化財である薬師如来坐像がある。堂の前にて合掌する。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十六)
冬の旅堂の隣に鐘楼が
冬の旅静かに佇む薬師堂
㊟薬師堂・・・医王山縁起によれば、国分寺境内の薬師堂は、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立されたと伝えられています。現在の薬師堂は宝暦年間(1751年から1764年)に今の場所に移され、建て替えられたものです。所在地 国分寺市西元町1-13-16(国分寺境内)(国分寺市役所HPより転載)
(注)国の重要文化財である薬師如来坐像(平安時代末頃の作といわれている)は10月10日にご開帳される。また、薬師堂の境内西側に土師竪穴住居跡がある。
◎「薬師堂について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十八)》
冬の旅前に歴史ある薬師堂 
冬の旅前に江戸の世の薬師堂
冬の旅堂宇に薬師如来坐像
冬の旅堂宇に木造薬師如来
冬の旅堂宇に重文薬師如来
冬の旅薬師堂にて手を合わす
冬の旅木漏れ日背にして合掌す
冬の日に参拝済ませて公園へ
冬の旅薬師堂より公園へ
木立抜け見上げる空に冬の雲

枯尾花(令和3年2月15~16日掲載分)


◎ 枯尾花(令和三年二月十五~十六日掲載分)
● 令和三年二月十五日 月曜日 
○ 十一月日々折々 その三十九 枯尾花
《今回の自選代表二句と自句自解》

冬の園元気にはしゃぐ児らの声 

 十一月中旬の国分寺の旅。武蔵国分僧寺跡地の傍に薬師児童遊園地がある。遊園地から園児らはしゃぐ声が聞こえてくる。園児らの元気な声に老夫婦は、元気をもらう。コロナ渦、ありがたい声だ。

国分寺楼門の背に冬もみじ 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺の楼門の前に着いた。冬のもみじを背にして絵になる景色だ。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十三)
冬の晴遊園地には遊ぶ児ら 
冬の園元気にはしゃぐ児らの声
冬日背に道を北上老夫婦
歩きゆく路傍にポツンと枯尾花
冬日浴び元町通り横断す
楼門へ向かう路傍に山茶花が
冬の旅続いて今の国分寺
冬の旅前に国分寺楼門が
冬の旅風格のある楼門が
㊟楼門・・・国分寺境内にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛によって菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものです。
 板金葺の屋根で、江戸時代の建築様式をよくとどめた、風格ある建物です。三間一戸の楼門で、2階には十六羅漢像(現在13体)を安置しています。(国分寺市役所HPより転載)楼門の奥には武蔵国分寺の本堂がある。
冬の旅前に医王山国分寺
㊟国分寺・・・医王山最勝院国分寺は、真言宗豊山派の寺院です。伝承では「分倍河原の戦い」で焼失した武蔵国分寺は新田義貞の寄進により薬師堂が再建されたと伝わっています。江戸時代に入ると徳川幕府は、由緒ある寺社に領地を与えて保護しました。国分寺の薬師堂も三代将軍家光から慶安元年(1648)に九石八斗九升八合の寄進を受け、朱印状を下付されました。以後、十四代家茂までの朱印状が残っています。享保10年(1725)に本堂が再建されたと考えられます。  
 現在の本堂は昭和60年に改築されたものです。所在地 国分寺市西元町1-13-16(国分寺市役所HPより転載)
建武2(1335) 年 に義貞の寄進で薬師堂が再建されたことを伝えている。  
 その後も法燈は継承され,江戸時代になると幕府から与えられた寺領によって復興の足掛 かりができ,享保・宝暦年間に至って,仏殿・薬師堂・仁王門等が建立されて寺観が整い, 現在に至っている。(国分寺市・国分寺関連サイトより転載)
(注1)現在の武蔵国分寺本堂の南側には、武蔵国分寺跡が広がる。
◎「医王山最勝院国分寺ついて」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十五)》
(注2)武蔵国分寺のプロフィール
 真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。院号は最勝院。本尊は薬師如来。
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。(国分寺物語より転載)
(追加) 
 受け継ぐ心継がれる―国分寺遺伝子 
 武蔵国分寺 ご住職 星野亮雅さん の物語り
 頂いた名刺の裏を見てみると、「福祉協議会」の文字。
 私は興味を覚えて、ご住職さんに伺ってみる。
「ここに『福祉協議会』ってありますが、住職という役職を担いながら、務められているんですか?」
「お声がかかり、最初は何も分からず始めたんですよ。ただただ、聖武天皇の教えを継ごうという想いからです」
聖武天皇? そんなにも前の天皇の想いを受け継ぐとは…。
私には、歴史の教科書でしか見たことがない名前。
1200年以上も前の天皇の教えを受け継ごうという想いは、生半可なものではない。
 その聖武天皇の教えとは、一体どういったものなのだろう。
「『広く蒼生のためにあまねく景福を求む』大勢の国民のために、多くの幸せを願うです。聖武天皇の人びとを思うお気持ち、その志を継承する国分寺の住職としては、地域のためになるお仕事へのお誘いを、無碍(むげ)にお断りするわけにはいきませんでした」“
国分寺遺伝子”、素晴らしい。住職さんの強い心意気が伝わってくる。(国分寺物語より転載)
国分寺楼門の背に冬もみじ 
冬の旅すぐ前現国分寺

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● 令和三年二月十六日 火曜日 
○ 十一月日々折々 その四十 冬の鳥
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅万葉植物数多あり 

 十一月中旬の国分寺の旅。現・医王山国分寺の本堂の前に着いた。周りには、たくさんの万葉植物(約百六十種類)が所狭しと並べられていた。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十四)
冬の旅妻と立ち寄る国分寺
冬旅に遺伝子受け継ぐ国分寺
冬うらら聖武天皇の御威光が
※聖武天皇・・・聖武天皇. しょうむてんのう. 生没年 : 701~756.奈良時代(在位724~749)の第45代天皇。文武天皇を父、藤原不比等の女藤原宮子を母とする。藤原不比等の娘光明子(光明皇后)は皇后にあたる。724年即位し、積極的に唐代の文物制度を採り入れて国政の充実に努めた。また仏教を深く信仰し、国ごとに国分僧尼寺を建立し、自ら書写した経文を納めた。さらに東大寺を建立し、奈良大仏を鋳造して天平文化をつくりだした。
冬うらら聖武天皇の威光あり
冬旅に近世様式多き寺
冬の旅脇より向かう仁王門
冬の旅寺に宝暦の仁王門
㊟仁王門・・・国分寺境内にあり、宝暦年間(1751から1764)に建てられた八脚門です。
使用している木材の一部は建武2年(1335)に新田義貞が再興した薬師堂の古材を使用していると伝えられ、「新編武蔵風土記稿」にもその説が紹介されています。
 もとは萱葺の屋根でしたが、現在は瓦葺の入母屋造になっています。門の左右には、作者不明で享保3年(1718年)に作られた阿(向かって右・口を開けている)吽(向かって左・口を閉じている)の仁王像が安置されています。(国分寺市役所HPより転載)
(注)本堂を後にして、道を回り込むと仁王門に。奥には薬師堂がある。いずれも1700代半ばの建立。本堂とは林で分断されていて、一度境内を出て道をたどって行かねばならない。
◎「仁王門について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十六)》
冬の旅門に阿吽の仁王像
冬の旅本堂前に植物園
冬の旅すぐ目の前に植物園
冬旅に立ち寄る万葉植物園
㊟万葉植物園・・・万葉集に詠まれている植物を集め、往時をしのぶよすがにとの意図で国分寺前住職星野亮勝氏により設置された植物園です。市の天然記念物に指定されています。
 故星野亮勝前国分寺住職が、武蔵国分寺跡を訪れる人々が、奈良時代の文化や思想を理解しやすいようにと、国分寺が栄えた時代と同時期に編さんされた「万葉集」に歌われた約160種の植物を例歌とともに展示しています。所在地 東京都国分寺市西元町1-13-16(国分寺市役所HPより転載)
(注)国分寺の本堂前は万葉植物園と名付けられ、約160種もの植物が植えられている。武蔵国分寺が建立された頃というのは、万葉集が編まれた時期。そして、万葉集には植物を詠んだ歌も多いことから、往時をしのぶということで、先代ご住職が13年かけて採集したという。
◎「万葉植物園について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十七)》
国分寺植物園に射す冬日
国分寺植物園に冬陽射
植物園見上げる空に冬の鳥
冬の旅万葉植物数多あり

冬木立(令和3年2月13~14日掲載分)


◎ 冬木立(令和三年二月十三~十四日掲載分)
● 令和三年二月十三日 土曜日 
○ 十一月日々折々 その三十七 冬木立
《今回の自選代表句と自句自解》

行く道の路傍の植え込み冬紅葉 

 十一月中旬の旅。僧寺の国分寺中門跡地から次の場所への移動中、路傍の低木の植え込みの植物の葉が紅く色づいていた。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十一)
冬の旅金堂跡に礎石あり
㊟金堂跡・・・金堂は本尊仏を安置する建物です。桁行き7間(約36メートル)×梁行き4間(約17メートル)の礎石建物として建てられました。現在も多くの礎石が残されています。武蔵国分寺の金堂は、諸国国分寺中最大級の規模となります。所在地 西元町2-1,2(国分寺市役所HPより転載)
(追加資料)
 武蔵国分寺跡は現在の府中街道の東側にあり、寺域の回廊に囲まれた中には南に金堂・北に講堂があり、西には西僧坊、東には東僧坊と時刻を知らせる鐘楼がこの東僧坊の西どなりにありました。(H・I・IROIROSのサイト 国分寺のお話より転載)
◎「金堂跡について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十四)》
国分寺往時を偲ぶ冬の日に
行く道の路傍の植え込み冬紅葉 
行く道の路傍の植栽冬紅葉
冬の旅鐘楼跡はこの辺り
冬の旅鐘楼跡に礎石あり
冬の旅鐘楼隣に僧坊が
冬の晴金堂裏に通路あり
冬の旅歩く金堂・講堂間
冬晴れの講堂前に幢竿跡
国分寺講堂の奥冬木立

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● 令和三年二月十四日 日曜日 
○ 十一月日々折々 その三十八 冬野
《今回の自選代表句と自句自解》

国分寺跡の背の崖冬もみじ 

 十一月中旬の旅。僧寺の中門跡地から講堂跡に移動した。国分寺の講堂跡の背景となるベルトのような高台の国分寺崖線(ハケ)の森林の紅や黄色の冬もみじが冬晴れの青空に映えて美しい。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十二)
冬日浴ぶ講堂跡の説明板
冬の旅講堂跡に礎石あり
㊟講堂跡・・・講堂は経典の講義などが行われる建物です。桁行き5間(約29メートル)×梁行き4間(約17メートル)の礎石建物として創建され、後に金堂と同規模の桁行き7間(約36メートル)×梁行き4間(約17メートル)に増設して再建されたことが明らかになっています。所在地 西元町2-1,2(国分寺市役所HPより転載)
講堂の跡地の後ろに冬木立
国分寺跡の背の崖冬もみじ 
国分寺跡の背のハケ冬もみじ
国分寺跡の近くに山茶花が
冬旅に見応えのある寺の跡
冬の旅国分寺跡に見どころが
冬の旅見どころ多き寺の跡
冬の旅歴天平の御世に思い馳せ
国分寺跡地の一部まだ冬野
冬の旅右薬師児童遊園地

山茶花(令和3年2月11~12日掲載分)


◎ 山茶花(令和三年二月十一~十二日掲載分)
● 令和三年二月十一日 木曜日 
○ 十一月日々折々 その三十五 枯草
《今回の自選代表句と自句自解》

冬の旅塔心礎大きくて 

 十一月中旬の旅。僧寺の七重塔跡地に着いた。大きな礎石が七つ点在している。中央の心柱の塔心礎の石は特に大きい。九世紀の当時、六十メートルほどの高さのある巨大な七重塔が建っていたという。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十九)
国分寺塔の跡地に冬の蝶
僧寺跡枯草踏んで塔跡へ
塔跡に大き銀杏の冬黄葉
冬晴の塔の跡地に説明板
冬の晴板に七重塔の絵が
冬の旅七重塔跡に礎石
㊟七重塔跡・・・塔跡1は3間四方。武蔵国分寺の七重塔は『続日本後紀』によると835年(承和2年)に落雷によって焼失したとされる。その後、845年(承和12年)に男衾郡の大領であった壬生吉志福正(みぶのきしふくまさ)が私費による再建を申し出て許可されている[2]。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』の武蔵国分寺跡の項より転載)
 七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルのところに位置します。塔は、「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する国分寺の重要な施設で した。3間(約10メートル)四方の礎石建物で、高さは60メートルほどあったと推定されます。現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っています。
 国史である「続日本後紀」に、承和2年(835年)に七重塔が雷火で焼失し、復旧ができなかったのを、前の男衾郡(おぶすまぐん・現在の埼玉県比企郡付近)の大領(たいりょう・長官)である壬生吉志福正(みぶのきっしふくしょう)が再興を願い出て許されたと記されています。発掘調査では、塔が創建期とその後の2回この位置で建てられたことを確認しています。
 また、平成15年度の地下レーダー探査により、礎石の残る塔跡(塔跡1)の西方約55メートルの地点で、もう一つの塔跡(塔跡2)が発見されました。塔跡2には大規模な地盤固めの跡(版築・はんちく)があるのみで礎石は残っていません。塔跡2と塔跡1の建て替えとの明確な関係は把握できていません。所在地 西元町3-26(国分寺市役所HPより転載)
(注)九世紀の当時、60mほどの高さのある巨大な七重塔が建っていたという。
◎「武蔵国分寺の七重塔跡について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十三)》
冬の旅広き敷地に礎石あり
冬の旅塔の礎石の大きこと
冬の旅敷地中央に石心礎(しんそ)
冬の旅塔心礎大きくて 
冬の旅数多な礎石並びをり
冬の旅大きな礎石どっかりと
冬うらら往時の姿に思い馳せ
冬麗奈良の御代に思い馳せ

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● 令和三年二月十二日 金曜日 
○ 十一月日々折々 その三十六 山茶花
《今回の自選代表句と自句自解》

国分寺中門脇に山茶花が 

 十一月中旬の旅。僧寺の七重塔跡跡地から国分寺中門跡に移動した。中門跡地の脇で山茶花が花を咲かせていた。とてもきれいだ。

(十一月中旬 国分寺散策 その三十)
冬の旅少し歩いて中門に
冬の旅中門跡に礎石あり
冬の晴中門礎石くつきりと
冬日浴び中門跡に我は立ち
冬日背に中門跡に吾立ちぬ
冬の晴中門戸口はこの辺り
冬の旅無き築地塀はあの辺り
国分寺中門脇に山茶花が 
僧寺跡ピンクの山茶花明るくて
僧寺跡ピンクの山茶花明るかり
冬の旅中門・金堂間に遺構
冬の旅寺跡に幢竿(どうかん) 遺構あり

落葉掻く(令和3年2月9~10日分掲載)


◎ 落葉掻く(令和三年二月九~十日分掲載)
● 令和三年二月九日 火曜日 
○ 十一月日々折々 その三十三 冬椿
《今回の自選代表句と自句自解》

見渡せば僧寺の跡地に冬椿 

 十一月中旬の旅。僧寺の跡地に到着してさらに周囲を見渡すと紅い椿の花が咲いていた。僧寺の跡地は、そこだけ華やいで見えた。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十七)
見渡せば僧寺の跡地に冬椿 
見上げれば跡地の上空よく晴れて
見上げれば跡地の上空青あおと
見上げれば跡地の上空まぶしくて
国分寺址の石碑に冬陽射
冬紅葉背にして寺址の石碑建ち
冬紅葉背にして寺址の石碑立つ
冬の旅僧寺紹介南より
冬晴の僧寺南門(なんもん)跡に立つ
冬の旅目の前に広き僧寺跡

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● 令和三年二月十日 水曜日 
○ 十一月日々折々 その三十四 落葉掻く
《今回の自選代表句と自句自解》

跡地にてシルバー人材落葉掻く 

 十一月中旬の旅。僧寺の跡地に到着し、七重塔跡地へ向かう。途中でシルバー人材の方々が、跡地で落葉掻き作業をしていた。この時季ならではの情景である。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十八)
冬の旅東の塔跡地へと
跡地にてシルバー人材落葉掻く 
冬の旅シルバー人材より情報
冬の旅情報を得て跡地へと
冬の旅七重塔跡地へと
冬の旅七重塔跡地広々と
国分寺塔の跡地に散り紅葉
はらはらと僧寺跡地に散り紅葉 
国分寺僧寺跡地に散る木の葉
国分寺跡地に冬の日燦燦と

冬帽子(令和3年2月7~8日掲載分)


◎ 冬帽子(令和三年二月七~八日掲載分)
● 令和三年二月七日 日曜日 
○ 十一月日々折々 その三十一 冬帽子
《今回の自選代表句と自句自解》

寺跡へ向かう路傍に山茶花が 

 十一月中旬の旅。文化財資料展示室で見学した後、次の目的地である国分僧寺跡へ向かった。また途中で山茶花の花を見つけた。また花に癒された。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十五)
冬の旅立ち寄る資料展示室
冬の旅瓦・土器など展示され
冬旅に鉄製品など観て回る
冬の展歴史の重みずっしりと
冬の晴国分寺跡へ歩きゆく
旅先ですり違う人冬帽子
寺跡へ向かう路傍に冬の菊
冬の旅妻と国分僧寺跡へ
寺跡へ向かう路傍に山茶花が 
冬の旅しばらく歩いて寺跡に
冬の旅やがて国分寺跡に着く

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● 令和三年二月八日 月曜日 
○ 十一月日々折々 その三十二 冬の草
《今回の自選代表二句と自句自解》

冬旅に最大級の国分寺 

 十一月中旬の旅。文化財資料展示室見学後、次の目的地である国分僧寺跡に着いた。ここは、日本で最大級の国分寺である。広大な敷地に驚いた。

見渡せば僧寺の跡地散りもみじ 

 今日は冬日和。見渡すと僧寺の跡地には散りもみじが・・・。僧寺の跡地に彩りを添えている。

(十一月中旬 国分寺散策 その二十六)
冬の旅妻と国分僧寺跡
冬の旅寺の北東地域入る
冬の旅僧寺北東地域入る
※僧寺北東地域・・・僧寺の金堂跡・講堂跡を対象に実施された。
以後,発掘調査は,昭和 33 年の日本考古学協会による僧寺中門跡の調査,昭和 39 年 ~ 44 年の滝口宏らによる僧寺鐘楼・中門・塔,尼寺推定金堂・尼坊,僧寺伽藍地区画溝な 9 どの調査,昭和 48 年の武蔵国分寺跡調査会による僧・尼寺中間地域の調査などと,断続的 に行われてきた。  
 その後,昭和 48 年,市立第4中学校建設問題*を契機に、曲折を経て広域学術調査を実 施する市常設の武蔵国分寺遺跡調査会が組織され、昭和 49 年から昭和 61 年までの12 年間で,僧尼寺の寺域範囲が確認された。(国分寺市・武蔵国分寺遺跡調査会記録より転載)
(注)僧寺の南にある市立第四中学校付近は,当時まだ雑木林や畑だった。
冬日差す広き跡地に説明板
冬の旅ここは武蔵国分寺跡
㊟武蔵国分寺跡(僧寺地区)・・・武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は、東京都国分寺市西元町・東元町にある古代寺院跡。武蔵国分尼寺跡を含んで国の史跡に指定されている。
 奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺・国分尼寺の寺院跡にあたる。現寺院については武蔵国分寺を参照。(フリー百科事典『ウィキペディア:Wikipedia』より転載)所在 東京都国分寺市西元町1丁目から4丁目付近
(注1)武蔵国分寺は元弘3年(1333)分倍河原の合戦(新田義貞と鎌倉幕府)で焼失し、建武2年(1335)に薬師堂だけ再建されたことが伝えられている。尼寺はこの頃には、廃寺になっていた。
(注2)薬師堂・・・新田義貞公の寄進で建立された薬師堂は老朽化し、約430年後の宝暦年間(1751〜1763)現在の丘陵上に建て替えられ、この薬師如来(国指定・重要文化財) を中心に除々に形態を整えて今日を迎えている。
(追記)
 元弘3年(1333)の分倍河原の戦いで敗れた新田義貞は、その敗走中、国分
寺を焼失させ、建立から600年近く続いた武蔵国分寺は終わる。その後、義貞は後悔の念からか、2年後の建武2年(1335)、薬師堂を寄進する。
※分倍河原の戦い・・・分倍河原は鎌倉時代の古戦場。鎌倉幕府第十四代執権だった北条高時の弟、泰家が指揮する幕府軍と新田義貞率いる倒幕の軍勢が、1333年に壮絶な戦いを交えた場所です。
この戦いで、一時敗走したが援軍を得て盛り返し、大勝した。勢いを増した新田軍は、数日後には鎌倉へとなだれ込み、遂に140年余り続いた鎌倉幕府は滅亡した。
(追加資料 その一)武蔵国分寺・僧寺伽藍  
 僧寺の主要伽藍が考古学的に解明された経緯は,昭和 31・33 年の日本考古学協会仏教遺 跡調査特別委員会 ( 石田茂作委員長 ) による発掘調査で,金堂基壇の規模や講堂西側の継ぎ 足し基壇の存在を明らかにしたのを嚆矢とする。その後,尼寺跡の無許可宅地造成を契機と して,市教育委員会による昭和 39 ~ 44 年までの断続的な調査が行われ,中門・北方建物 の規模や七重塔の再建,伽藍地 ( 寺域 ) 区画施設等が判明し,続いて昭和 49 年以降には寺 域確認調査を柱として市に常駐調査組織 ( 現国分寺市遺跡調査会 ) が設置され,中枢部区画 施設の規模や伽藍地 ( 寺域 ) 区画の変遷等を解明すべく,市内の各所で調査が行われた。こ れらの調査によって,僧寺伽藍地 ( 寺域 ) は幅 2.1 ~ 3.0 m,深さ 0.8 ~ 1.5 mの素掘り溝で 区画され,その規模は北辺 384.1 m,東辺 428.3 m,南辺 356.3 m,西辺 365.4 mを測るこ とが判明した。  
 また,伽藍配置は,南辺の西寄り3分の1等分線を中軸線として,伽藍地区画に設けた南 門,中枢部区画に設けた中門,中枢部区画内南側の金堂,その背後の講堂,中枢部区画外の 北方建物が一直線に並び,金堂・講堂の両側には鐘楼・経蔵 ( 未確認 ) と東西僧坊が配される。 中枢部を区画する施設は掘立柱塀 ( 柱間 2.4 m ) と素掘り溝で構成され,中門より両翼に延 びて北へ折れ,東西僧坊を取り込み,講堂の背後で閉じる。回廊を有さず,僧坊等までを囲 繞する特異な構成をとるのは,後述する尼寺も同様である。
 なお,中枢部区画の規模は東西 約 156 m,南北約 132 mを測る。塔は中枢部区画の外に位置し,金堂の中心より直線距離 で約 220 m離れた伽藍地 ( 寺域 ) 区画の南東隅に存在する。  
 以上の伽藍を構成する主要の建物は,瓦葺き礎石建物で,金堂・講堂・鐘楼と塔は基壇を 有することが判明している。このうち,金堂は間口7間 ( 約 36.1 m ),奥行4間 ( 約 16.6 m ) の東西棟建物で,諸国国分寺中最大級の規模を誇る。(国分寺市・武蔵国分寺遺跡調査会記録より転載)
(注1)武蔵国分寺跡・・・武蔵国分寺跡では僧寺と尼寺が発掘・保存されており、同一地域にこれらの史跡が保存されているのは貴重です。国史跡に指定された武蔵国分寺跡は東山道武蔵路跡と共に「武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡」という史跡名所に変わり、現在では約155,600m²の広大な史跡として保存され公開されています。(古代の東京にタイムスリップ!サイトより転載)
(注2)武蔵国の国分寺がどうしてここ?
 国分寺の建立地の条件は、中国の神話が用いられました。これは四方の方角を司る、霊獣に関わりがあります。
四神相応の地に合致した「国分寺」の建立の条件として国分寺崖線と武蔵国府、湧水が関わっていました。
 北には丘を控えて“玄武の神(亀)”、東には湧水が出て“青龍の神(龍)”、西には交通の要所の東山道武蔵路が“白虎(虎)”、多摩川の流域で広がった南には“朱雀(鳳凰)”と神が守ってくれているこの土地は、武蔵国の拠点に条件が適(かな)いました。(国分寺のお話サイトより転載)
(追加資料 その二)
 741年、聖武天皇の命により全国に国分寺が建立される際、武蔵国の国府(現在の府中市)の近くに良い土地はないかと選ばれたのが現在の国分寺市です。なぜ選ばれたのか?それは、帰国した遣唐使から伝えられた「四神相応(ししんそうおう)の地」の考えに基づきます。「四神相応」の「四神」とは、東西南北の四方を守護するとされる聖獣のことで青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)のことを指し、それぞれ特徴のある土地に棲むと言われています。その特徴を説明すると(野川)
東:青龍…豊かな川の流れがある
西:白虎…大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀…広大な平野や海があり開けている
北:玄武…山や丘陵がある
 四神相応の地というのは、古代中国に始まった風水における四聖獣(四神)が東西南北の各方向の地形とフィットする地のことです。国分寺は、東に清流があり、西には当時の大動脈といえる東山道武蔵路、南には広大な平野が広がり、北には国分寺崖線がそびえるという理想の地相であったのです。鎌倉時代末期、国分寺は新田義貞によって残念ながら燃やされてしまったと伝えられていますが、礎石の跡などは残っており、周辺には真姿の池やお鷹の道など、東京都とは思えないのどかな風景が残っています。都会と閑静な佇まいの融合。是非一度、国分寺の地にお立ち寄りください。(国分寺市観光協会の関連サイトより転載)
◎「武蔵国分寺跡(僧寺地区)について」《治蝶の俳句の散歩道(ちょっといい話 その七百八十二)》
冬旅に最大級の国分寺 
冬の旅国分寺跡は国史跡
冬の旅ここは国指定史跡です
冬の旅ここは国指定寺史跡
冬晴の跡地の敷地広々と
国分寺跡地の敷地に冬の草
国分寺跡地の敷地に枯草が
見渡せば跡地の木々は冬もみじ
見渡せば僧寺の跡地散りもみじ